神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ
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青春の六甲ハイツ
6代 森井敏晴
古希を過ぎて振り返れば洋弓部の4年間(’65~’69)は私の青春そのものでした。
六甲ハイツ跡(練習場)の暖かい春風に並ぶ5色の的、霧ヶ峰(夏合宿)の草原を渡る風に上空をゆっくり回るグライダー、そんな風景に高校時代の暗いモノクロがいきなりカラーに変わった様な開放感を覚えました。練習後は心地よい疲れの中で夕暮れの神戸の街を見下ろしながら、三々五々阪急六甲に向かって坂道を下って行きました。途中で立ち寄った「山麓(お好み焼き)」と「フローレンス(喫茶店)」はどちらも雰囲気のあるお店でした。
魅力的な先輩と明るく自由な部の雰囲気に「これこそ大学の運動部」と感動しましたが、それでいて2部リーグ加盟から僅か3年で1部3位まで一気に駆け上がった力強さも実感しました。そんな高揚感の中で’68には中野君(7代)が初めて全日学連委員となり、私は関西学連で第8代委員長を務めました。背景には歴代学連委員(大和、横田両先輩)の功績とそれを支えた幹部の皆さんの連盟貢献がありました。この時期の関西学連では加盟15校の他加盟準備校も多くその援助・指導に追われていました。上部組織の全日学連・全日ア連も念願のFITA加盟にめどがつき国際化に向けて動きだしていました。この様な内外の躍動感と連盟各校との(異文化)交流は私にとって強い刺激と貴重な経験となりました。この年苦労を共にした学連仲間とは今でも50年来の交友が続いています。
4年間を通して苦楽を共にした6代の仲間12名は既に2名が他界しましたが、残る10名のうち5名は私と同じ関東在住で東京弓影会の常連として旧交を温めています。「六甲ハイツの突風で的畳が飛ばされ貴重品?のアルミ矢が全滅した惨劇」等は、繰り返し話題にするほろ苦い思い出です。このメンバーは母校愛にも目覚め、「神戸大学東京六甲クラブ」を拠点に4年前に発足した学部横断の同期会(「四四会」)でも活動を続けています。
もう一つの六甲ハイツの青春は生涯の伴侶との出会いです。同期生の妻(旧姓:芝野)は新人戦、東西対抗戦で健闘し選手としては私より前途有望でしたが、残念ながら勉学に励む?と称して2回生終了前に退部しました。この青春の日の出会いも今では夫婦の茶飲み話で、妻によれば「六甲ハイツの凸凹道のランニングとサーキットは女子高出身にはきつかった!大学祭の模擬店の『豚まん』は大好評につき解凍が間に合わず、芯の冷たいのもありました・・・すみません!」だそうです。
《故郷を離れて38年、金婚式間近の「神戸っ子夫婦」が武蔵野から望郷の思いを込めて》
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