神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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私の洋弓部時代

7代 那須卓司

昭和41年大学入学からほぼ半世紀、今年古希(70歳)になり遠い過去の記憶を思い出しております。岡山の田舎から出てきて異国情緒溢れる神戸の街、アーチェリーという当時ではまだ珍しかった競技と出会ったことにより欧米文化への憧れが醸成され後々の人生に少なからず影響を与えたと思っています。振り返って見るに昭和41年は「いざなぎ景気」の最中であり日本中が活気にあふれ皆が明るい将来に希望を持っていた時代でした。6月にはビートルズが来日し日本武道館で公演、グループサウンズと加山雄三の歌がはやり、スポーツでは巨人、大鵬が全盛の時代でした。
何かの運動部に入ろうと思ったものの高校時代まともにスポーツに打ち込んでいなかったことであまり体力的に自信がなかった。洋弓部に入った動機は普通の高校にはなかったので皆と同じスタートにたてると思ったことまたアーチェリーという響きにかっこよさを感じたことにほかならず思えば不純な動機であった。入部してからはその魅力と良き先輩方に巡り合えたことで洋弓部生活に打ち込み授業にもあまりでず六甲ハイツにあった練習場にばかりいました。当時全国の大学紛争の波が神戸大学にも押し寄せ学舎の封鎖等大いに揺れた時代でしたがそのような状況下においても六甲ハイツでの練習に明け暮れていた記憶があります。当初使用の弓はヤマハ製でしたが上達するにつれ新しい弓が欲しくなりました。当時輸入品で最も有名であった「ホイット」はさすがに高く手が届かず2年の時に「ブラックウイドウ」に変えました(添付の写真がブラックウイドウ)。

3年になりはからずも主将の大役を担うこととなりその後色んな経験をさせてもらいました。個人的にはその秋の関西学生個人選手権で4位に入賞したことが私にとって誇れる唯一の記録かもしれません。春、夏合宿等楽しい思い出はたくさんありますがほろ苦い思い出は翌年(昭和44年)春のリーグ戦です。一部リーグ1勝4敗で最下位となり入れ替え戦を戦わざるを得なくなりました。先輩方が守ってきた一部リーグから脱落することは許されないとの思いからこの時はさすがに主将という立場が肩に重くのしかかり悲壮感を滲ませながらの苦しい戦いでしたが、チーム全員の健闘で辛うじて勝利し二部降格を免れることが出来ました。今ではほろ苦くも懐かしい思い出となっています。

これらの経験はその後の人生において困難や逆境に直面した際にそれに立ち向かう勇気を与えてくれたような気がしております。また4年間を通してのもう一つの大きな財産は友達、仲間であります。現役の時はなかなか会う機会は少なかったですが退職後は東京弓影会を通して旧交を温めています。卒業以来仕事の関係で東京及び海外(ドイツ7年、アメリカ7年)と色々な場所に住みましたがやはり青春時代を過ごした神戸の4年間はいまでも一番懐かしく思い出されます。
これらの記憶を思い出す機会を与えて頂いたことに感謝!





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