神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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洋弓部の思い出

第12代 渡辺 秀昭

 4年前の退職を機に、時間的な余裕もできたことから、NHKの朝ドラは、欠かさず観るようになった。今は、コロナウイルスの影響で中断している朝ドラ「エール」。「フレー、フレー」ではなく、「フレ----------ェイ、フレ----------ェイ」息の続く限り、「レ-----------」を引っ張るのが我が洋弓部の「エール」だった。昭和50年入社の同期に、他大学応援部出身者がおり、イベントの度「フレー、フレー」とやるのであるが、掛け声だけは「自分のほうが上」と内心思ったものである。
 入部直後から、大きな声で挨拶をする事、練習時も必ず声を出す事を先輩から叩き込まれた。我々も、夏合宿で指導する立場になると、体育会系(硬派)を気取り、「声が小さい!」と始める。順番に指名するが、S君が、更に「もう一回」となかなかOKをだそうとしない。すると遂に泣き出す者が---。しかし、それは指導を受けている側ではなく、「もうやめてあげて」と、12代同期の女子が泣き出したのには参った。S君も悪役を引き受けただけであり、基本的に皆優しいのである。
 エール関連でもう一つ。ある夜、酔った勢いで、三宮の東門街辺りの横断歩道上で、円陣を組み「フレ----------」と始めた。流石に、逃げ出す者もいたが、迷惑も考えず最後までやってしまった。自分が逃げ出した方だったか記憶が定かでないが、今ならSNSを賑わすことになったであろうか。
 4年生最後の春に、マネージャーM君の車で、神戸から四国経由九州を巡る男4人旅をした。近頃は、豪華に海外へ卒業旅行というところであるが、小遣いのない我々は、高知で合宿している後輩の激励の後、松山の先輩を頼って泊めてもらう、それ以降は全く無計画。行き当たりばったりで、道路地図の温泉マークを目指して行くと、隙間風が入るとんでもない田舎の宿(湯治場?)に泊まる羽目になったり、長崎ではどこも満室で、止む無く客引きについていったら、隣の声が丸聞こえの安宿だったり。帰りのフェリーに乗り込んだ時には小銭だけという状態であった。それもこれも、やんちゃな学生時代だからこそできたことかもしれない。
 もっとまじめな内容は無いかと、記憶をたどってみたが、どんな成績を出したとか、試合風景とか肝心のアーチェリーに関する部分が出てこない。何か資料をと探しても見当たらない。残っているのは、押し入れの隅に捨てられずに置いてある古い弓と、少し曲がったのも含め19本の矢だけだった。それでも、一部リーグ復帰を果たしたことは、我々の誇りであり、自慢げに友人に話していたことだけはよく覚えている。貢献できたのはせいぜい応援くらいであるが、卒業してから45年余り経つ今でも良き思い出である。






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