神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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全日本とその後

第13代 浅田 博

入部まで
 アーチェリー部の最初の話しとしては、新入生として昭和47年入部の所からでしょうか。昭和47年4月の入学式は、学園紛争のあおりで湊川の中央体育館で行われました。大学で授業が開始され、新入生の我々が物珍しさ一杯で教養部をうろつき、クラブ勧誘の先輩達の間をボーとしていると、その前を爽やかに、弓を携えて通り過ぎていく美女2人がありました。その後方をフラフラとついていく怪しげな学生は、私を含め数人。彼女達に誘導される様に連れて行かれた所は、前方の古畳に的が貼られた工場現場の様な草むらでした。この理農学部前の草むらは、私たちがアーチェリー部を引退するまでの練習場となりました。
入部最初
 入部してまず教わったことは、先輩に会うあるいは部室やレンジに最初行ったときは、「ちわー」、別れ際は「失礼します」を大声で言う習慣がついたことか。
 新人は、まずは引き手と押手の筋トレか。25ポンドか30ポンドの素引き用の弓で筋トレ、あとは腕立て、腹筋、ランニング、などだった?と記憶
 近くの畳屋でもらってきた古畳を、畳置き場として利用していたヒマラヤ杉の大木の下に配置
(実は、夏はその畳の上は絶好の避暑地!昼寝もできるアーチェリーレンジ‼)
しかし、ここから的まで畳を背負って運ぶのは大変! 但し怪力のO氏は、畳2枚運び!!  
 引手と押手バランスがとれてきたら、各自、近くの道永アーチェリーショップで作ってきた矢を各自の弓のアロウプレートに乗せ、狙いを定めて弓を射る練習だった。30メートルだとだいたいは畳にあたる。トンデモナイ方向に飛ばす者がいると、理農学部前レンジでは、矢が後ろの土手に飛んで行くと、崖の石を直撃し矢先が羽が開いたようになる。後に洋弓部と兼務で体育会幹事長として活躍するT氏と私とは、矢の損傷率ワーストを争っていた。ただ、次の機会を得ることで、私は矢の損傷の呪縛から逃れることからできたようである。
 最初は、弓を引き絞っていくと、引き絞る最終の「寸で」の前に矢を放ってしまう「はやけ」という心理現象。矢は、トンデモナイ方向に飛んでいく。これを救ったのが”クリッカー”という救世主。これをつけることで、押手と引手の一定化により、「的への集中」が出来るようになったようである。25ポンドか30ポンドの素引き用の弓での筋トレや、腕立て、腹筋、ランニング?などのおかげで、その後、引手と押手の筋力バランスの付き方がよくなったなっていくと、1年生の8月夏合宿 (志賀高原)での自己新とかが出て、成績は徐々に上がっていくことに。
競技会へ
 昭和48年は関西個人戦などいくつかの競技会に出場して、昭和48年(1973)10月19,20日 第12回全日本学生アーチェリー個人選手権大会に出場することになった。13代メンバーの出場は、男子/浅田博31位、女子/奥中(旧姓千東)いね子14位でした。
 このとき男子は31位以内が、昭和48年度全日本アーチェリー選手権大会に参加できることになり、大会は、同年11月3日4日 宮崎県で開催される、とその会場で伝えられた。(青天の霹靂)
 全日本まであと数週間しかない。全日本がどのようなものかも知らなかったが、とにかく、ひび割れたおんぼろのヤマハYGをさらにボンドで補強修理、何度も修正を重ね、矢も遠目には真っ直ぐに見える矢に揃えて、宮崎に向かうことにした。
大会へ
 同じく全日本に出場する、当時高校生であった道永宏さん(因みに彼は1976年モントリオールオリンピック大会アーチェリー男子個人銀メダル: 日本アーチェリー初の銀メダリスト。その道永親子の車に便乗させてもらって)と共にフェリーで宮崎へ向かうことになった。
 出港当日のフェリー乗り場には、13代の部員がたくさん見送りに見きてくれ、まるで新婚旅行の見送りのようだとか誰か言ってくれた気もする。
 さて、到着した宮崎での全日本大会初日は晴天ではあったが、強風に見舞われ、どの選手も成績は伸びなかった。しかし、翌日2日目は晴天無風で各選手好成績であった。2roundの総成績でいうと、入賞したのは、1位木下2255, 2位梶川2248, 3位広瀬2240, であり、結局、私は全日本の結果、51位1947であった。
大会後
 先輩から譲り受けた2年目のヤマハYGは、宮崎から帰ってきて、いよいよへたって?きて、飛ばなくなり、弓のカーブには、ひびわれが目立ちだし、瞬間接着剤での補強もできなくなり、翌年2年生の春に、やむなく同学部のU氏から譲り受けた中古のホイットに変えることに。しかし替りの弓では馴染まず、全く得点は上がることはなかった。
 ただ、実力で全日本に出場したとも思っていなく、地道なトレーニングのお陰でもない全日本出場なので、その冬のオフは計画的な筋トレもせず、計画的に弓を射ることもしないままで、さらに冬場であったので、春になるころには筋力は衰え、弓を変えたものの、全てにおいて整備されない春を迎えることとなった。春のリーグ戦が始まったが、全く点数が出せるはずもなく、皆の応援に回ることとなった。リーグ戦の成績は、さっぱりであった。

 練習後、教養部の部室での着替え後、一目散にアルバイトに行ったり、あるいは授業は出ずに4名揃えて六甲の坂を一路下ったり、御影の下宿などを中心とする地域に集っていた気がします。

 入部動機は、さまざまなれど、もはや半世紀以上いろいろ故障をかかえつつも、それぞれの道で過ごしてきた13代15名はかけがいのない仲間です。これからの人生、健康に気を付けつつ、張り切って元気に老後を過ごしていきます。

添付の個人写真はS48年宮崎の全日本アーチェリー大会の勇姿、全体写真は夏合宿(長野県白馬)時で11~13代が写る。

 



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