神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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弓が真ん中にあった日々

第14代 柏崎(旧姓 松下)和美

 入部して初めて弓を引かせてもらった時、上級生から「上手ね〜」と褒めてもらって以来、ひょっとして私って才能あるのかも〜なんて調子に乗ってしまった私。「ちわー」の挨拶も、理学部レンジでの畳運びもさほど気にならなくて、毎日機嫌よく部室に通っていました。
 夏の炎天下での練習はちょっとキツかったけれど、帰り道に同期の女子達と喫茶店で山盛りのかき氷を食べることでなんとか凌ぎ、夏合宿の『恐怖の発声練習』も面接も、当時の幹部の方々が優しかったからか、何事もなく無事にパス。
 50m、30mがまともに射てるようになってくると練習がますます面白くなり、大学に着いたら部室に直行、ユニフォームに着替え弓と勉強道具を持って教室へ。弓を引く合間に授業を受けるというのが日常になっていました。 
 教養の授業の時、200人ぐらいの階段教室で、いつものように一番後ろの壁に弓を立て掛けて座っていたら、「そこの弓の人!私のことを狙わないでくださいね。」と、先生のマイク越しの声。〜弦、張ってないから大丈夫やねんけど〜と思いながらも、説明するのも面倒だったので「狙っても当たりませんから、大丈夫です!」と大声で答えて、みんなに笑われたこともありました。
 2年生の夏頃にはフォームも安定し、そのタイミングで弓をホイットに変えると、また一段と点数が伸びました。出場する試合の数も増え、一斉練習のあと居残るようになったのもこの頃です。道永さんのレンジを使わせてもらっていたので暗くなっても危なくはなかったし、何より自分のペースで弓を射てるのは貴重な時間だったのだけれど、みんなと帰りに喫茶店に寄ることができなくなったのは少し寂しかったかな。
 でも、色々な試合に出るようになったことで、また新しい出会いもありました。当時、関西学連のメンバーはとても強くて、関個で上位に入った人たちは、全関、全日本学生(インカレ)、全日本、他の地区の学連との交流試合、世界選手権の選考試合、オリンピック強化選手の合宿、と、ほとんど同じメンバーで臨んでいました。学校はそれぞれ違うのですが月に2回程会っていたので、自然と仲良くなっていきました。試合場へもみんなで一緒に行き、新幹線や船の中で、今回はこの中のだれが上位に入るのかなあなんて予想しあったものです。
 試合場が九州であれ中部地方であれ、みんなでワイワイ関西弁で乗り込んで行くので、他の地区の人達から見れば嫌な存在だったかもしれません。でも、私たちにとってはどこに行ってもアウェイ感はなく、結果、伸び伸びと自分達の試合ができるという、とても恵まれた環境でした。2年生の秋のインカレで3位、全日本に出場後、選考試合を経て翌年6月のスイスでの世界選手権に出場することになりました。が、この時のメンバーも4人中3人が関西学連の仲間。いつも通り関西弁で通していたから、帰って来る頃にはもう一人のメンバーだった社会人の福田美枝さんも、変な関西弁を喋るようになっていました。
 このエッセイを書かせて頂くにあたり、試合の事などを思い出そうとしたのですが、競技中の事はほとんど覚えていないということがわかりました。(それだけ集中していたということにしておいてください)その代わり、みんなとワイワイ楽しくやっていたことは、次々と浮かんで来ます。不思議なものです。
 弓一本持って、ずいぶん遠くまで行って来ました。でも、心の拠り所は六甲の丘の部室であり、レンジであったことに違いはありません。そこに帰って来ればいつも通り、褒めるでもなく、くさすでもなく、ただ「おかえりー」と言ってくれる仲間がいて、それはとても有難くてなんだかホッとしました。女子リーダーと言いながら、留守がちだった私の代わりに後輩を指導してくれたり、部員をまとめてくれていた同期のみんなには感謝の気持ちでいっぱいです。
 今、コロナ禍の真っ只中。いろんな集まりが中止になり、気軽に会えなくなってしまいました。弓影会の皆様が無事にこの災難を乗り越えられ、またいつか、元気でお目にかかれる日が来ることを切に願っております。

 写真は、世界選手権の開会式のリハーサル風景
 真ん中の男性は南アフリカの選手(イギリス出身)のトッドさん。特に有名な方ではないのですが関大の茂野さんが、「カッコいいから一緒に写真撮りたい!ついてきて〜」というので、みんなで写真におさまっているところ。茂野さん、嬉しそう!手前が関学の峯さん、メガネが社会人の福田さん、右端が私。左手奥の一団に当時の世界記録保持者のダレルペイス(アメリカ)がいます。私はそっちの方が気になっていました。


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