神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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楽しい時間が流れていた

15代 原田和幸

 あの頃からもう半世紀近くも経つわけで,10年一昔というのでもう大昔ということになります。昨日の晩飯がなんだったのかもあやしい昨今ではありますが,なんとか昔のことをいろいろと思い出して見ようと思います。
私たちが入学したのは1974年でした。前年のオイルショックの結果,高度経済成長が終焉を迎え先輩たちの就活にも影響があったと聞いています。この年の秋には「記憶にございません」で有名なロッキード事件に繋がる金脈問題で田中角栄内閣が総辞職しました。学生運動は内ゲバの時代になり,トイレに○マルせん滅なんて文字が残リ,環状線で角材にヘルメット姿の学生をちらっと見かけましたが,私たちにはなんかちょっと遠い世界に感じました。
受験生時代から脱出し,花の大学生になったもののなんか基準になるものがないことに気づき、クラブに入ることを思いついてなんとなく見学した洋弓部。当時の理学部前のなにかのどかな雰囲気のレンジで楽しそうに男女和気あいあいと活動していた先輩達を見てこれだと思いました。しかし教養のグランドを部室に向かっているときに前方からやって来る先輩の顔を見てびっくり,それは日焼けなんて生やさしいものではなく前と後ろの区別がつかないほど「焦げて」いました。しかし、やがて自分も同じようになっていくのでした。「あぶみ」から「残身」までの基本姿勢からはじまり「素引き」、「畳射ち?」を経て、初めて的を射てたときの感動は今も覚えています。東京五輪でのメダリストの古川選手がTVで10mぐらいの距離で小さい的を射貫いて歓声が上がるのを見て、それぐらいなら自分もできると感じたのは私だけでは無いでしょう。
練習は「マンドリンクラブとどっちがしんどい」と軽口を言い合うレベルだったように覚えていますが、時折あった六甲ケーブルまでのランニングはだいぶハードでした。練習後のミーティングで自己新の報告をしてみんなから賛辞を受けたときは気持ちよかったものでした。当時はアメリカのダレル・ペイスが有名でフォームをまねする人もいました。弓はテイクダウンが出はじめてきていてYAMAHAのYTDを買いました。今は国産メーカーは無いようですね。矢筒から矢を抜くときに指でくるくると回転させるのがかっこよくて先輩のまねをして一生懸命練習したことを覚えています。的を外れて曲がってしまった矢をまっすぐに直すために手のひらで垂直に回してバランスをとる動作も日常になっていました。ダクロンの原糸を買って自宅で弦を製作していたように思います。
こうして私の大学生活はアーチェリー部中心になって行き、あんまり授業には出ず練習が始まるまでは教養の食堂で部の同期とグダグダ。当時ナポレオンというトランプゲームにはまっていました。練習後は学連の機関紙に広告を出してもらっていた雀荘「すずめ」で強敵の先輩達と卓を囲み痛い目にあっていました。なかには練習には来ないけど雀荘には参加している部員がいたりしたような記憶があります。コンパでは「ヤングファイト」とかいって一気飲みをしてぶっ倒れ、T先輩が「鬼のパンツ」を踊っていたことを覚えています。私も会社の宴会でパクらせてもらいました。
私は大阪から通いだったので帰りの電車は腹ペコ状態で、同じく大阪へ帰る同期と阪急十三で立ち食いそばや梅田食堂街、環状線京橋や鶴橋の王将のどこかにひっかかっていました。その当時の王将はカウンターだけの餃子専門で一皿100円。規定時間内に10人前完食するとただになるということで壁には猛者達の名前がずらりと貼り出されていました。いわゆる行列の出来る店でそれも外だけでなくカウンター席の後ろにも客が並び背後からの「早よ食え」の視線が突き刺さってきました。
話がだいぶ横道に逸れてしまいました。3年のころ木々に囲まれた素敵なレンジから教養の部室の上の音楽室の屋上から射下ろす無機質なレンジへと変わりました。的の後ろはコンクリートの壁、外れた矢は見事に破損してしました。如実にお金が絡んできます。おかげで集中力が増した?かも。夏合宿ではおなじみの発声練習と名古屋に着いたときの強烈な暑さが記憶にあります。春合宿では高知へ向かう途中の宇高連絡船で穏やかな美しい瀬戸内海の島々を眺めながら食べる「連絡船うどん」景色込の味は最高でした。大阪南港からのフェリーで室戸岬を越えて太平洋に出た途端にエレベーターにのって上がり下がりを繰り返しているような強烈な揺れは忘れられません。そんななかでも雀牌を握っていた先輩達は鬼でした。
3年生のときに東京遠征をしました。宿舎は前の東京五輪の選手村だった代々木の青少年センターだったと思います。国立市の一橋大学、吉祥寺にあった成蹊大学などと対戦、テレビでよく見た「吉祥寺」の名前に何だかワクワクしたようなことを覚えています。
私たちの代は,目立った成績を残したものもおらず、リーグ戦での戦績はパッとしませんでしたが、試合ではメンバーと応援が一体となってすごく盛り上がったように覚えています。それだけで十分楽しかったように思います。今思うと人によって違うかもしれませんが、やっぱり大学生のころが人生の中で最もゆったりと素敵な時間が流れ楽しかったような気がします。願わくば早くコロナが収束して、こんな楽しい思い出を仲間達と語らいたいものです。

※写真は違う代の人も若干いますが3年次の春合宿のとき



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