神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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私の洋弓部時代

3代 瓦谷清

 私は弓影会名簿では3代で昭和37年(1962年)に経営学部に入学し、同年秋に洋弓同好会に入り、昭和41年3月に卒業した。東京オリンピックが昭和39年秋に開催され日本の戦後の復興ぶりを世界に示した。日本が高度成長期に入りつつあった時期の学生生活であった。アメリカ的な豊かな生活に憧れていた頃でもあった。その後の経過を振り返ってみると1990年ごろのバブル期の絶頂期にはGDPは世界の20%、第2位に達していた。それに反し現在の日本はデフレ下の低成長、少子高齢化社会、所得格差などいろいろな面で残念ながら将来の夢や活力を失いつつある社会へと激変したのではと歴史の重みを感じています。今の私は卒業して50年余り経ち75歳の後期高齢者の一員であります。
 その私が近年一番感動した場は洋弓部の創立記念レセプションのパーティーであります。一昨年の10月に神戸ポートピアホテルで開催されたレセプションは約200名の参加があり広い宴会場が若い人たちのエネルギーで溢れていました。弓影会の会員も800人を超えているとのことです。昭和37年秋に洋弓同好会に入部した時には、練習する専用のレンジなく、カネもなく、竹製の弓・矢の弓具であった同好の仲間が11人にすぎなかったことを思い起こすと、この発展・成長ぶりには感無量であります。ここまで成長させてくれたそれぞれの年次の後輩たちの努力に対し感謝の気持ちで胸が熱くなりました。
 また、現在の洋弓部の皆さんの活躍ぶりには誇らしく思います。男女ともに一部リーグで活躍し、2020年の東京オリンピックに出場する選手が誕生することも夢でなくなっています。大いに期待をしています。
 話が変わりますが、私は3回生の時にはマネージャーを務めていました。当時の我々はお金に余裕がなかったのですが、春・夏の休みにはできるだけ合宿練習を実施して技量の向上や部員の結びつきを図ることを大切にしていました。昭和39年の新入部員(5代)は15人で部員は倍増です。当時は合宿する場所を探すのが大変でした。アーチェリーそのものが普及していなく専用の施設がなかったからです。今では経緯を失念しましたが幸い夏の合宿は信州大学の農学部の野辺山学舎で行うことができました。広い農場は練習に十分でした。夜には美しい星空とともに新人を一人一人部屋に呼び込んで話し合ったことも思い出での一つです。
 余談ですが、野辺山は国鉄(現JRグループ)路線の最高標高地(1375m)であり赤岳(2899m)を主峰とする八ヶ岳連峰の山麓にあります。今は隣の清里とともに人気のリゾート地です。そして合宿した信州大学の野辺山校舎は国立天文台野辺山宇宙電波観測所に変わっています。私は合宿の縁で八ヶ岳連峰の美しい姿に魅せられ東京から近いこともあって幾度もこの地を訪ねていますが、2008年夏に赤岳の頂上に立ったことも楽しい忘れられない思い出です。皆さんも機会があれば訪ねてください。
 最後になりますが、東京の弓影会は2月、6月、11月に恒例の飲み会を開いています。ここに参加して昔の仲間と語り合うのが楽しみになっています。



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