神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



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アーチェリーの思い出と私

8代 吉田勝

 私の洋弓部入部動機は、皆さんの多くと同様、大学から始めてもハンディがなく、練習が厳しくなさそうな運動部だからでした。長田高校3年の時の同級生の、今は亡き福田孝治君と春休みに校内ツアーをしようということになり、バス道を歩いて上がってきて、文・理・農学部校舎の横の広い広場で練習しているのを見て、即決しました。そして私の洋弓人生はリーグ戦の応援から始まりました。岩永主将をはじめ諸先輩方の厳しい顔つきが印象的でした。

練習が始まってレンジに行くと、溌溂とした同期の女性部員が4名いて、私的には続ける動機付けになったかもしれません。1年の時はそれなりに授業にも出て、そのせいではないでしょうが、点は出ませんでしたが、我が同期は活躍し、新人戦で松本君と福井(旧姓)さんがダブル優勝、岩崎(旧姓)さんが30mで321点の女子の日本記録を出しました。松本君と岩崎さんが途中退部したのは残念でした。

2年の秋の東京での成蹊大学との定期戦、一橋大学・大阪市大との三商大戦にお情けで連れて行ってもらいました。東京に着いた日が「新宿騒乱」の日で、新宿経由をあきらめて井の頭線で宿舎のある吉祥寺に向かいました。この時一橋大のレンジの場所を覚え、たまたま入社後の独身寮が国分寺で、アーチェリーの練習をしようとレンジに行って頼んだら、練習してないときは自由に使っていい、と快く使わせてくれました。一橋大学洋弓部に感謝です。

2年の冬頃から学生運動が盛り上がり、同じ機械工学科のK君の作った檄文に署名をさせられたりしているうちに学校封鎖となり、明け方に寝て昼前に起きて練習に行く生活を9か月繰り返しているうちにフォームが固まったのか、点数が出だしたのは幸いでしたが、授業が始まっても学業のペースが掴めず、得意だったはずの必修科目を落として留年しました。

入部当時はすでに、伝説のTFC付きのHOYTが発売されておりましたし、意識の高い人は他のメーカーの弓でいろんなロッドを試しておりました。私は体育会系の悪いノリで、鉛のウエイトだけの弓を使っておりました。現役を引退した後、グリップの下あたりに前に30cmほど、後ろ下方に8cmほどのTFC付のロッドを付けたら、練習の点数が50m+30mで平均で20点以上アップしました。意地は張らないほうがよさそうです。社会人になって早速HOYTを購入しましたが、週1回×1ラウンド程度の練習では、点数は出ませんでした。

また当時は、鶴甲第1キャンパスの南側の谷筋に道永さんのプロショップ兼レンジがあり、90mまで射つことができました。道永さんは世界選手権代表で、ここで練習していた中本新二氏は第9代の赤沢氏の出した1234点の日本記録を更新する1252点を出し、オリンピック・世界選手権代表になっております。「道永の親父」の息子が道永宏氏で、オリンピックで銀メダルを獲得しました。ということで、当時の兵庫県のレベルは高く、私が4年の時に第7代の佐伯壽一さんが三人の代表の一人で出場された都道府県対抗戦(当時は体協に加盟しておらず、国体の種目になっておりませんでした)で優勝しております。私も翌年の大学5年目の時になぜか県の代表になってしまい、卒業研究が忙しくなり練習も出来ないので辞退しようか、と悩んでいるうちに県連の方で出場申請をミスって、兵庫県は出場できなくなり、皆さんに迷惑をかけなくて済みました。

個人的な思い出を書かせていただきました。最後になりましたが、ご指導いただきました諸先輩方、一緒に頑張った同期の方々、常に強力な戦力となってくれた9代の方々、その圧倒的な存在感に負けずに部活動を続けてくれた10代・11代の方々、神戸大学洋弓部を継続発展させていただいております後輩の方々、そしてアーチェリーに感謝しております。





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