神戸大学体育会洋弓部弓影会
リレーエッセイ



前のエッセイへ                 次のエッセイへ


第9代 赤澤 恵子

 私の洋弓部の思い出と言えば、練習しても練習してもさっぱり点が出ず、時には矢が後ろの石垣にカキーンと当たって見るも無残に曲がってしまったり…。そんな私が女子リーダーを務めてリーグ戦では二部落ちの危機に瀕したり、活躍を続ける同期の男子に比べて女子は影の薄い存在でした。
 それでも退部しようとは微塵も思わず、放課後の全体練習以外にも空き時間が少しでもあればせっせせっせとレンジに通い、次の授業が迫ればユニフォーム姿のまま講義を受けたり、「下手の横好き」とはよくいったものです。
 当時、部誌という名の大学ノートがあり、回ってくると先に書かれた先輩同輩の方々のけっこう赤裸々な人生論めいた述懐やそれぞれの個性あふれるアーチェリー談義ならびに雑談を面白く読み、そして私も今読み返すとくすぐったいようなわけのわからん熱い思いを縷々綴ったものです。なお、この部誌は11代の高見(旧姓大前)雅代さんが一枚一枚スキャンして下さって、電子データとして保存されています。
 さて、当時、部内の男女の恋愛はご法度という不文律があった?ようで、そういう関係は引退するまで隠し通すか、片方(たいてい女子)が退部しておおっぴらにつきあうかの選択を迫られるという噂(真偽のほどは未確認)がありました。
 私は自分が活躍できないぶん、同期の赤澤君(当時はそう呼んでいました)がリーグ戦や関個、全関、全日などで活躍するのが我がことのように嬉しく、自分は予選に通らないので出場できないのですが、応援のため関個などの会場に出向くときは、おにぎりや鶏の空揚げの差し入れをよく持参しました。もちろん他の方のぶんも持っていくのですが、お目当てはやはり赤澤君でした。
 私はそのころ外見内実ともにブスだったので男女交際に無縁でしたが、赤澤君のほうもアーチェリーの練習と単位を取ることの両立に必死で、また私同様モテるタイプでなかったこともあって恋愛とは無縁(私がそう思っているだけかも)だったわけで、まあ、モテないもの同志がささやかに愛をはぐくんで、卒業1年後に結婚いたしました。
 その赤澤君も、全日本のタイトルをとったことによって、卒業のころには「ヤマハ」(当時は洋弓を製造していた)などアーチェリー業界への就職の誘いもあったのですが、趣味を職業にはしたくないといって教職につき、ナショナルチームの強化合宿にも公務員という立場では仕事を休んでまで参加することはできず、結局チームを辞退し、世界進出はかないませんでした。が、本人は別に残念がることもなく、しばらくは国体レベルで、そのうち県大会レベルになっても楽しんでアーチェリーを続け、60代になってコンパウンドに切り替えて、教職をリタイアしてからは週に3,4回射ちにでかけていました。5年前にクモ膜下出血で倒れ、半年ほど入院して治療リハビリを続け、記憶障害は残りながらも日常の動作はできるようになりました。が、すっかり筋肉が落ちてしまって自分の弓(40ポンド)が引けなくなりました。それでも26ポンドの初心者用リカーブ弓を買って素引き・近射から5m、15mとやり直して、1年ほど前にやっと30mが射てるようになり、4月と10月、年に2回、神戸カップのシニアの部(30mダブル)に出るのを励みに練習を続けています。



前のエッセイへ                 次のエッセイへ